〔文責:企画部指導課・細貝〕
記念講演:変革への挑戦 〜快進撃カンパニー 吉本興業の経営戦略〜
講師: 吉本興業(株) 木 村 政 雄 常務取締役・大阪製作本部長
(埼玉県中小企業家同友会 ’98全県経営研修会・大倒産時代を勝ち抜く顧客満足経営〈経営品質〉
日 時 平成10年10月24日(土)13:00〜20:00
場 所 大宮ソニックシティ
概 要
〈記念講演〉
変革への挑戦 〜快進撃カンパニー 吉本興業の経営戦略〜
講師 吉本興業(株) 木 村 政 雄 常務取締役・大阪製作本部長
1.自分の生い立ちと吉本興業
昭和21年京都府伏見区生まれ、高校まで地元、父親が公務員、高校の時、NHKで事件記者という番組があり、新聞記者を志そうと思い、同志社大学の文学部社会学科新聞学選考に進んだ。
就職でサンケイ新聞を受け、最後の6次試験で落ち、大学の就職科のところに、吉本興業の名前が目に入り、入社して30年。
週間ダイヤモンドの息子を入れたい会社のベスト153位に入った。一方、入れたくない会社の31位でもある。入社希望も増え、昨年は20人の枠に対し、6000人以上の入社希望があった。
入社した昭和44年当時は良い会社とはいえなかった。入社後、京都の新京極に花月劇場に配属された後、翌年制作部に入り、タレントのマネージャをやり、横山やすし、西川きよしを担当し、数次の貴重な経験をした。横山さんの攻撃対象は、スチワーデス、ホテルマンやタクシーの運転手で相手が反撃できない人が主体であった。→これは洒落
テレビスクランブルの時は、横山さんが番組に来るか来ないか、酔っているか酔っていないか、番組中暴言をはかないか、番組が無事に終了するかだった。
西川さんは本番の2時間前にスタジオに入り、何度も台本を読んでいたが、横山さんは本番の15秒前に、誰かをどなりながら入ってきてそのまま本番に入った。しかし、評判は横山さんの方があった。横山さんは色々と問題もあったが、片方に天性の勘と天賦の才能があった。
吉本興業は、今年で創立86年を迎え、資本金が47億円、平成9年度の営業収入が、228億円、営業利益が20億円、経常利益が23億円という小さな会社である。
昭和23年に東証・大証1部に上場し、売上の80%を製作部門(タレント)が稼いでおり、440人のタレントと、弟子が30〜40人いる。その他、札幌とか福岡には自称吉本興業を名乗るタレントが存在し、全部で500人位のタレントがいる。それと養成所(NSC)があり、東京に250名、大阪に250名、併せて千名のタレント及びその予備軍を抱えている会社である。
当社のタレントが出演するTV・ラジオの本数は、年間、18,266本であり、一日50本の番組に吉本のタレントが出演し、日本中に笑いを振りまいている。
当社のタレントが、当社をケチであるとか、ギャラより高い交通費とか言っているが、決して、あこぎな会社ではなく、頑張ったタレントには沢山払っている。昨年の例では、440人いるタレントのうち、上位11人は1億円以上の収入があり、一番多いのは6億3千万円であり、40人に一人は1億円以上稼ぐといえ、プロ野球やJリーグよりも確率が高いといえる。
最近は、お笑いタレントだけでなく、アイドルも手がけており、そのプロデュースもしている。女子プロレスもあるので、多少顔が不細工でも覆面をかぶせればよい。→洒落
そうはいっても皆が皆年収1億円を稼いでくれればこんなに楽な世界はないかが、中には、年収5万円もいる。NSCという養成所を卒業すると、上位20名、組数で言えば10組位が、東京では銀座7丁目劇場、大阪では心斎橋劇場のような若者に特化した小さな劇場に出演できるが、この出演料は1日500円であり、源泉をすると手取り450円となり、コンビ一人当たりにすると225円にしかならない。家をでて銀座に行ったら帰る金はないというのがざらにころがっている。→洒落
ひよっとしたら、自分も数億円稼げるかもしれないとして全国から集まってきているのが今の吉本興業ではないかと思われる。
ジミー大西の例(大阪の高校時代、野球のレギュラーになれなかったのはサインを覚えられなかったからとか。病院で点滴を受けていた際、彼女に速く合いたいために点滴液を飲んだとか。彼の芸は人に突っ込まれてはじめて面白い芸になるが、第三者をあてにした芸はどこかで限界がでる。これからの展開が難しいと思っていたところ、たまたま、絵の才能があり、昨年3月に芸能活動を止めて、6月にスペインに旅立った。絵画に転向するといった途端に、方々から製作依頼があり、北海道の夕張市は市のモニュメントの製作を依頼したり、第一勧業銀行は昨年の6月から、彼の絵を通帳に使っている。)
かつては、親が子供に勉強しなかったら、サーカスか吉本にしか行けないと脅かされていた時代に比べ、近頃は評価が高まっている。昨年の読売新聞の小さな囲みの記事で、大阪の小学校の先生が4年生に、戦後大阪で一番発達した工業は何かと聞いたら、吉本興業と答えたという子供の話しがのっていたが、小さな子供でも当社の名前をひたしく感じてもらているのはありがたい話しである。時代が本当に変ってきたことを感じる。
2.時代の変化
日本を覆っているものが、悪い方に変ってきて、時代の気分がグルーミー(重い、暗い)で、新聞をあけると、倒産とか、株や円が下がった等の記事が目に付き、明るい話題がなく、昏迷の時代とか、わかりにくい世の中になったとよくいわれている。常識人にとって世の中が分からなくなり、古い時代のフレームを変わりゆくこれからの時代に当てはめようとしても合わない。
新しい問題を解くには古い方程式では解けず、新しい方程式をたてなければ解けないといえ、今までの考え方の前提=いわゆる常識を一旦捨て、新しい考え方の枠組を構築していかないと、これからの時代に対応できないという時期に差し掛かっているのではないかと思われる。
明治から、先進国に追いつくため、価値や仕組、資本、人口等を東京に集約させ、集団エネルギーと頑張りにより発展してきた国であり、前のランナーの背中を見て追い抜いてやろうと、皆が一致団結して、頑張ってきた。
こうやって、自らが世界のフロンとランナーになった途端に、アイデンティティを見失い、未だに、積極的な展望を描けないままに、心理的にたたずんでいる。追いつくことが目的で、追いついた後、どうしょうというプランがないままここまで来てしまったということではないかと思われる。今我々が置かれている状況は、「さざんかの宿」の歌のような段階で、「くもりガラスを手でふいて、あなた明日が見えますか」というものであるが、いくら手でふいてもあなた明日は見えないよというのが今の状況である。右肩上がりのパラダイムという目的・合理性を見失ってしまい、国も個人も自分たちの居場所が分からないで、当てもなくさ迷っている。
ある人は、このような状況を指して、「主体性拡散の時代」=アイデンティティ・ディフュージョンの時代 としているが、正にそのような状況に我々は置かれているのではないかと思われる。
今までは、既に目標とするものが明白にあり、それに対して一致団結して頑張ってきていればよかった。明治の頃は富国強兵=国を富ませて強い兵隊をつくるということを旗印にして一生懸命頑張っていればよかった。第二次世界大戦以降は、この兵隊さんがいなくなり、ひたすら国を富ませるということを旗印にして一生懸命頑張っていればよかった。
こうやって頑張ってきたおかげで、日本の国民総生産(GNP)は1946年4700億円→1993年には475兆円と、国民総生産が1千倍に膨れ上がったが、我々が1千倍豊になったかというと決してそうではない。
今我々が置かれている立場をオランダ出身のジャーナリストが書いてベストセラーになった本のタイトルのように、人間を幸福にしない日本というシステムというように揶揄されているというのが現状である。幸せになるために頑張ったが、頑張った分だけ幸せになれていないというのが我々が置かれている現状ではないかという気がする。
日本人が高度成長に酔いしれている時に、ある外国人は、君たちが高度成長を達成したことは分かったので、今後何をするつもりなのかと問い掛けたそうである。正に、その答えを用意しないままここまで来てしまったという気がする。
本来、人間は、お金を貯めたり、働いたりするのは、その先に自分たちがどのような生活をしようとするプランがあって、目的があって、それを実現するための手段として、労働したり、貯蓄をしたりということがあるが、我々は、本来、手段であるべき、労働や貯蓄、あるいは成長を目的化してここまできてしまい、何のための成長なのかという視点が抜けていたのではないかと思われる。
おまけに、日本人は非常に心配症の国民で、本当は暗い話しが大好きで、大変な時代という本が出るといきなりベストセラーになってしまうという変なマインドをもっている。
数ヶ月前のアエラの特集で、「悲観を楽しむ日本人」という特集があったが、どこかで我々はこの暗い時代を楽しんでいるマゾシストではないかと思われくらい、変なマインドをもっている。
悲観からは何も生まれないので、そろそろ心を前に向けていかなければならない時期に差し掛かっているのではないか。今こそ、今までの意識とか仕組を変えるチャンスなんだと考えるべきではないか。
3.意識とか仕組をどう変えるか
今までは、ひたすら成長するということを軸にして社会が動いてきたが、成長率の高さは、本当の意味での幸せを保証し得ないということが分かってきたので、楽しさを軸にして社会が動いていくということに変えていかないといけないと思う。GNP・GDPが幸福の尺度にならないんだというのがこれからの時代ではないか。
違う尺度といえば、GHP=グロス・パピネス・プロダクツとか、GNSF=グロス・ナショナル・サフィス・ファクション等が尺度になっていかなければならないのではないか。
仕組ということでは、これまでは、成果を中央一箇所に集約し、上から下に成果を落とし込んでいく(配分)というシステムだったものを、そうではなく、皆が一緒になって、成果そのものを一緒に創り出していくという構造に変えていかないとならないのではなか。
時代が変っているのに、古い人たちが旧来の手法で事に当たっているというのが、この国の状況で、なまじ、日本はなまじ古いルールでうまく行ってしまったがために、かえって変われない国になってしまったのではないかという気がする。
もう我々は、今までとはゲームのルールや競争のルールが変ってしまったということに気がつかないといけないのではないか。
4.競争のルールがどういう風に変ってしまったのか
今までの量的な拡大の時代は、誰と戦ってきたのかというと、ライバルの顔がおなじみのメンバーだった(同質間の競争)が、競争のメンバーが顔なじみのメンバーではなくなった(異質間の競争)。
当社で言えば、東京のお笑いプロダクションの大田プロとか、大阪の松竹芸能と争っていればよかったが、今や、当社のライバルは、ジャニーズ事務所であり、花月劇場のライバルは、ディズニーランドかもしれないという時代である。
今まで何を競ってきたのかというと、ほかより、よりうまくやるということを競ってきた。(ドウーベター。人と競う。=NO1を目指す)こういう時代にあっては、ほかとどれだけ異なったことをやるか。ドウディフレント=優れるということより、異なるということに価値がある(人と競うのではなく、目的競争、コンセプト競争。=ライバルがいないのでオンリーワン)の時代に変質。
同質間の競争であれば、考え方は狭くてよかった=ローカルでよかった。例えば、会社の中の私とか、業界の中の我が社とか という考え方をしていればよかった。
これからは、考え方のベースを大きくとらなければならなくなった。例えば、世の中にあっての私とか、世の中にあっての我が社はどうすればよい とかである。
考え方のベースを広く取らなければならない時代であるからこそ、「独自性」とか「主体性」、「個性」が際立っていかないと生き残れないというのがこれからの時代である。=グローバルパラドックス →ほかと同じでは生き残っていけない。ジャンルが広がれば外れてしまう。
同質間の競争の中では、求められた能力は枠内的(ドメスティク)なものでよかったが、こういう時代に求められる能力は、領域、カテゴリー、国とかを跨いで戦っていかなければならないので、能力に汎用性というものが要求されるようになる。
また、こういう時代をしばっていた、規範(モラル)は、何々らしくしなさいとか、そうでなければならないといったように、抑制的で、はみ出してはいけないというようなことがあった。=自分というものをころして、全体に尽くさなければならなかったし、変化を他者に依存していればよかった(他者依存型)。会社・国が何何してくれないという言い方をしてよかったが、これからは、自分がしっかりしなければならない。
これからは、どんどんとはみ出していかなくてはならず、価値観が開放型(エクステンション型)になって、自分というものを活かしていかなければならなくなると思われる(自己依存型)。
当社のタレントの例では、今までは、オール阪神巨人型=漫才の世界の中ではナンバーワンを目指すタイプ。目標は上方漫才大賞であり、一生懸命練習し、弟子たちにも後輩たちにも自分たちの価値観を共有する。しかし、活動の範囲は、演芸界という狭い範囲でしかない。
一方は、ダウンタウン型=漫才は世の中に出る一つの手段でしかなく、漫才大賞を取ろうなどという意識ははなっからない。ネタの練習を一生懸命するということもない。後輩たちに自分たちの価値観を共有するということもない。それよりも自分たちの独自性、存在感で勝負していこうというタイプである。演芸番組にはあまりでないが、歌番組の司会やニュースステイションにも出ていける。仕事の広がりも非常にある。段々とこちらの型に移行していくというのがこれからの時代の流れではないかという気がする。
もう我々は、今までの物事のくくり方、枠組にとどまっていたのでは、個人も会社もなかなか発展は望み得ないという時代になってきたという気がする。
従って、物事のくくり方をもう一回再点検しなければいけないのではないか。ヨーロッパでは通貨統合で、もはや国境も取っ払ってしまおうかというような時代に入ってきた。そんな時代にあっては、東側対西側というくくり方はもはや有効ではない。一流と二流とか、プロとアマチュアという区別、あるいは、表と裏、公と私の区別なども昔とずいぶん変ってきた。
当社の関係では、演芸、報道、歌謡番組とカテゴリーがはっきり別れていたが、今や総バラエティ化して、その辺の境目も定かではなく、ファションの世界でもそうであり、数年前にコンデギャルソン?というメーカーがトランスベンダーというコンセプトを出し、男とか女とかの区別を乗り越えたファションを提案した。
大学の学部の括りも、法学部、経済学部、商学部という括りでは、学生や産業界のニーズに応えられないというのが今の時代である。当社の提携している立命館大学では、今年の春から文科系とか理科系とかの垣根を取っ払ってしまう制度をスタートさせた。会社もそうであり、今までの事業領域だけに踏みとどまっていては事業の発展は望み得ない難しい時代に入ってきた。
当社では、1978年には社員が120人で年商が40億円という会社であったが、1997年には社員が230人、年商228億円に飛躍した。この間に一体何があったかというと、1980年の漫才ブームがあった。漫才ブーム以前の大阪のお笑いタレントと働き場所は、関西ローカル局の土日の夕方とか深夜くらいしか出番がなかった。営業のマーケットも関西一円位でしかなかった。それが、ブームにより、当社の明石家さんま、紳助竜助、サブローシロー、ぼんち、いくよくるよ等が東京のキー局のゴールデンタイムに出て行くようになった。そのおかげでマーケットが全国に広がって当社はようやくここまでに辿り着いた。
5.今後の展開
当社は、この商いを5年後に500億円の規模を目標にしている。この数字をクリアーするためには、既存の事業領域である単なる興業会社、プロダクションでは達成不可である(日本のエンターティーメント産業である放送・音楽・映画・演芸業界の産業規模は約5兆円であり、その中の演芸産業のシェアは0.6%、金額では300〜310億円位でしかなく、そこでナンバーワンになっても達成不可能)。そこで、もう一度、自分達の事業領域を広く捉え直し、単なる興業会社、プロダクションではなくて、「人に夢と希望を与えることや人の気分を明るくすることであれば何でもやる」そういうソフトを創る会社であるとマインドを切り替えてスタートを切ったばかりである。
既存の領域だけにしがみついていると、ズルズルと後退していくので、目標の数字がクリアーできるかどうかは別として、それくらい大きく志をもって、企業カルチャーの開拓をしていかないとうまく行かないのが今の時代ではないかという気がする。
マーケットが変わらなければ、こちらの定義を変えれば変わるという気がする。
また、こういう時代であるから、カテゴリーや領域を乗り越えていかなければならないし、一人の人間、一つの会社、一つの国だけが美味し所を独占して、後は我慢をして黙ってついてきなさいという時代ではない。
むしろ、こういう時代であるからこそ、皆が力を合わせて事に当たっていかなければならないのではないか。
ヨーロッパ、アジアでもそうであるが、中央集権的な独裁国家は国民から拒否されるのが今の時代である。日本国内でもはや連合政権の流れが出来つつある。産業界でも、数年前に新宿に高島屋タイムズスクエアができ、そこに対抗するために、ライバル関係にあった阪急百貨店と伊勢丹が提携して対抗するというのが今の時代である。
こういうことを指して、一言で言うと、個から固へということになる。本質的な個人主義(一人ぼっち)から、皆が力を合わせるということになるのではないか。
観客、有権者、ユーザー、消費者、お客様 等と我々は一体化していかなければいけない。一体化しないものは廃れる。お客から見て、価値のあるものをどれだけ供給していけるかということを競っていくのがこれからの時代である。
二つ目は、それを実現するため、我々供給者(サプライサイド)は、むやみやたらにくっ付くのではなく、それぞれが独創性、主体性、個性、オリジナルティ、特色を持ちよって、お互いに足りないものを補い合っていかなければならないのではないというのがこれからの時代ではないか。
逆に、独創性、主体性、個性、オリジナルティというものがない人たち、会社、国は、この輪の中に入れてもらえないことになる。政治の世界でも、産業界でもそうではないか。産業界でも、自動車のベンツと時計のスヲッチが一緒にスマートな車の開発をやろうというのがある。電気の東芝と自動車のトヨタが移動体通信の新しい会社を作ったりしている。夕刊フジの印刷を読売新聞社がしたりしている。
スポーツでも読売ジャイアンツが、お金の力で4番バッターと20勝投手を何人集めてきても勝てない。それよりも今いる選手の長所を伸ばし、一つの目的に向かって、それぞれの良さを発揮して、力を合わせていく、横浜ベイスターズ、西部ライオンズのようなやり方が多分正しいのではないか。
6.組織の改革
当社で言えば、吉本新喜劇という劇団がある。昔は落語や漫才のスターがいくら前に出ていようが最後に吉本新喜劇を見てお客に満足をいただいていた。しかし、数年前、新喜劇が始まる頃にお客がどぉーっと、帰っていった時期があった。見て面白くないから帰るのでは仕方がないが、見ないで帰るのはどういうことかと2個月くらい、お客の動向を見ていたが、やっぱり、面白くなかった。どうしてかというと、吉本新喜劇は、松竹新喜劇のように大スターの主役が真ん中に君臨し、脇役はそれを支えて、ストーリーを運んでいくという成り立ちの芝居ではなく、大したスターはいないが、一人のギャグに全員がコケテ笑いをとるという、全員野球のようなものであった。しかし、組織というものは、10年たち、20年たちしていくと、どうしても階層が出来てくる。そうやって、ベテランが上名主のような存在になり、若い作家の台本、若いプロデューサーのアイデアをことごとく退け、自分たちがやりやすい芝居に替えていった。自分たちのやりやすい芝居というのは、人間は歳を取ってくると動くのがおっくうになってきて、せりふで済ますようになってきた。それを繰り返していくうちに、段々と芝居全体が動きのない、ダイナミズムのないものに陥って、お客から拒否されるようになったという現象があった。新喜劇は、花月劇場のメインの商品であり、これが古びてくると、劇場のイメージそのものが、ローカル化、ロートル化していくので、もう一回、最初の精神に戻さなければならないとして、当時、60人のメンバーを一堂に集め、今日で全員首にすると話し、吉本新喜劇やめよっかなキャンペーンをスタートさせた。その後、別室で一人一人ミーティングして、これからは台本をベースに芝居をしていくこと、台本で若い人が主役の場合、スターであっても通行人Aとか、村人Cという芝居があるかもしれないが、それでも一緒にやってくれるかということを話し、それで嫌だった人は辞めてもらった。その結果、花木京、岡八郎、原哲男、山田澄子、船場太郎といったベテランが外れ、その下に押さえつけられていた、チャーリー浜、池乃メダカ、桑原勝男等が若い人と力を合わせて元気になってきた。これとて、五年くらいほうっておくと、また同じような現象を引き起こしかねないので、時々はかき回していかないといけないと思う。組織を変える時は、上から変えていかなければならない。しかも急速に変えなければ効果はないということがいえる。このような話しが外では言うが、自分の会社で言うと自分の身に及んでくるので言わないようにしている。→洒落
漫才や落語は個人プレーであり、絶えず、市場性が試される。駄目であれば消えていくしかない。所が、新喜劇はシステムであり、システムごと駄目になっているのは、誰も気づかなかったという例であり、変えなければならないということで変えた。
経営者もそうで、一人の経営者だけが力ずくで黙って俺についてこいという時代ではなく、よく言われる例に、歌舞伎型(主人公が一人だけがスポットライトをあびて、花道を見栄を切りながらいく)の経営からミュージカル型(出演者それぞれに見せ場がある)の経営にということがある。企業の存在そのものも単体的に存在している企業よりも、提携、ネットワークしていける企業の方がマーケットの障害も乗り越えられるし、活動範囲の広がりも実現できるのではないかという気がする。
当社が異業種のマイカルグループ、大日本印刷、丸紅等と色々なプロジェクトを起していっているということは、異業種とくっ付くことによって、そこに新しいマーケットを開拓できないかということで、今、チャレンジをしている。
一つのシステムで進んでいくという自前主義では競争に勝てないというのが今の時代ではないか。
領域とかカテゴリーを乗り越えて戦っていかなければならないので、今まで価値を持っていた「立派である」とか、「優れている」とか、「ためになる」(論理的な整合性、経験的な妥当性)とかよりも、これからの時代は、「面白い」、「分かりやすい」、「楽しそう」というものが価値や力をもってくる。
世の中が成熟してくると、品質や結果が高いということは一つの条件ではあるが、すべてではない。
7.テレビの特性と情報発信
我々が、情報を収集したり、発信したりする手段のことをメディア(媒体)というが、今の時代の最大のメディアはテレビで、我々が情報を収集する場合、その78.3%はテレビから情報を得ているといわれている。
我々に影響を及ぼすメディアの80%はテレビといわれている。一説によると新聞の4倍位の影響力があるといわれている。
最大のメディアであるテレビの時代の方向性に影響力を及ぼすのであれば、テレビの特性に注目すべきで、特性の一つは、カナダのトロント大学のマーチャル・マクローバル?教授は、テレビの特性は、非常にカジュアル(格式張らない)な媒体であり、権威というものがなじまない。テレビという箱の中に入ると、総理大臣であろうがジミー大西であろうが、山田花子であろうが皆同じ価値判断をされるという特性がある。
二つ目として、米国にテーラビアン?という心理学者がいるが、テレビというものは言葉そのものはたった7%しか相手に伝えていない。後の93%は、その人の顔、体つき、服装、ネクタイ、なまり、イントネーション等 見た目を伝えている。我々が紅白歌合戦を見ても、何を歌ったかではなく、どのような衣装であったかしか覚えていないのではないか。
このような特性のある媒体を通して世の中にアプローチしていく場合、活字的な教養、論理的な理屈を言ってみても、相手にはほとんど通じていない。
それよりも、相手と同じ位置にたって、面白そうに、分かりやすく、楽しそうに物事を伝えていくという才能の方がこれからは頼りになってくるものと思われる。
政治の世界でもそういう才能を求められるのではないか、当社をよく訪れる自民党の最高顧問の原健三郎先生は92歳であるが、ある時、政見放送を見ているとテレビの特性をよく理解しているのではないかと思ったことがある。政見放送は、テレビの画面を通して、3分間で自分のキャラクターをアピールしなければならない。そんな時に、私はこんなことをやりましたとか、これから立派なことをやろうと思いますと言ったって、だいたい皆同じ事を言うのであるから、たいして有効ではない。この先生は、私に私利私欲はありません。どうか後一回国会に送り出してくださいということから始め、そうすると勤続50年で自分の銅像が国会に立つということを言いたかったと思うが、そうやって、一分半位すると手を合わせて、どうか後一回国会に送ってくださいと言ったままで、一分半が過ぎてしまった。これがよいか悪いかは別として、この人一流のパフォマンスであり、なかなかテレビの特性を分かっているのではないかと思った。
料理人でもそうである。いくら料理の腕がよくて、美味しいものを食べさせるからといって、ほうっておいてもお客が遠くからくるという時代ではない。知り合いで、神田川利郎という料理人がいて、最近よくテレビに出てくるが、大阪の北新地にスッポン料理の店を出して、一人前5万円位であるが、飛び込みで入ろうと思っても中々入れないほどの盛況である。味よりも、あの有名な神田川ということでお客が入るというのが今の時代である。
大学の先生もいくら立派な知識を学生達に伝えていても、その伝え方がつたなければ、学生達の指示が得られない。落語家の桂文珍が関西大学の非常勤講師を11年間勤めているが、彼は、関西大学を受けて落ちた人間であるが、今や学生達の人気講座の一つに数えられているという時代である。
当社のタレントが芸がうまいから売れるという、そんなシンプルな時代ではなくなってきている。今いくよくるよと若江梢みどりというそれぞれ女性のコンビがいるが、芸そのものは、若江梢みどりの方がうまいが、先に売れたのはいくよくるよの方ある。どうしてかと言うと、くるよはスリーサイズがそれぞれ100で、ことさら太っているということを強調する衣装をスタイリストと一緒に考え、毎回毎回違う服装で舞台に出てくる。漫才は、テレビの場合で、5〜7分、舞台で13〜15分位のもので、その服装を見ただけでお客に笑ってもらえる。
会社も本社の建物の大きさ、従業員の数、売上の規模等を誇る時代ではなくなってきた。それよりも、あの会社はいつも新しいジャンルにチャレンジしているとか、元気だ、活気がある、面白そうだというようなことの評判の方が力を持っていくのではないか(コーポレイト・レジュケィション)。
当社は小さな会社ではあるが、流通王手の年間売り上げ1兆3千億円のマイカルグループや大日本印刷、丸紅等がジョイントして、プロジェクトを組むかというと、彼らにはない、ソフトの企画力、情報の発進力というのが当社にあるからで、これからはこういうようなことで勝負していかなくてはならないのではないか。世の中の価値観が変ってきたおかげで、今まで力を持っていた大きい、強い、力がある、永くやっているというものが、必ずしもメリットにならない時代になってきた。
8.求められる人材
このように、競争のルール、オペレーションのルールが変ってくると、当然、そこに求められる人材も変ってきて、スタートラインの所で人とどこが同じなんだろうということばかり探している人はもう要らないということになる。
今、日本の企業はよい品を大量に作るというキャッチアップ型のパラダイムから、創造は付加価値を生むというトップランナー型のパラダイムへの歴史的な転換期に直面している。
また、こうしたパラダイムの転換が行われると、ある日突然ベテランの能力が陳腐化するという現象が起こることがある。過去からの連続性というものが失われてしまえば、熟練というのはほとんど意味をもたなくなって来る時代でもある。
これを比喩的に言うと、ドウーベターの時代はある意味では、もの作りの時代であり、時間と成果が比例した(倍働けば倍のものができた。)、ドウーディファレントの時代は、知恵の時代であり、時間は比例せず、倍働いても倍のソフトはできない。
従って、これまで価値を持っていた、まじめであるとか、一生懸命であるとかは価値を生まない。イエスマンを演じていれば幸せが保証された時代は終わった。自らが変えない、自らが動けない、でも会社に対する忠誠心だけはいっぱいあるという人は今や企業にとって、リスクでしかなく、そういうのをぶりっ子サラリーマン、又の名を小柳ルミ子型サラーリーマンと言って、会社が別れようといってもいつまでもしがみついている。そういう粘着性は、無用のものである。
時間で貢献するのでなく、成果で貢献する時代で、連続何試合出場というのは、何の値打ちもない。
ビジネスマンにとって最大の商品は、あくまでも自分自身であり、自分がどういうソフトをパッケージした存在であるかということをいつも意識しながら、自分自身をどうプロデュースしていくか、違う言葉で言うと、自分のどんな能力を発揮して名前を売っていくことが問われるというある意味では面白い時代になってきた。
人とか、ものとか、金に市場性を持たせないといけない、自分にどういうふうに市場性を持たせるか、自分の賞味期限を切らさないとかが大事になってきた。今までは組織が主役だったが、これからは、個人が主役になっていかなくてはいけないのではないか。
デスターサロー?という米国の経済学者が、中国人の上から五分の一と日本人の下から五分の一ではどちらが知的生産性が高いかというと、ひょっとしたら中国人の上から五分の一の方が高いと言っている。人件費がどれだけ違うかと言うと、人件費が高い上海でも日本の五分の一(=1/20)で、経営サイドはどちらを選ぶかというと、当然、中国人の上から五分の一を選ぶ。このようなことがいっぱい起こっていくと思われる。
従って、日本人・国は、中進国の人たちと同じステージで勝負していては、いずれ、追いつき追い越されてしまうのは明らかであり、我々が総力をあげて、彼らが、真似できない独創性にあふれた商品創り、あるいは、感性にあふれた商品を創るというドウーディファレント型のステージへシフトしていかないと生き残っていけない。
ドウーディファレント型のシステムに対応できるうちに、この日本を変えていくためには、昔に比べて小粒にはなったが、カリスマ性のあるスーパースターはいないが、皆が皆モノトーンになってしまわないで、出来るだけ異なった才能を伸ばしていくというシステムにこの国を変えていかないといつまでたっても、創造性のある人間はでてこない。
日本の挨拶の中に、「おかわりありませんか」と言うが、これからは、どこかのコマーシャルのようにファツ・デュー(何か新しいことない)ということを挨拶がわりにするくらいマインドを変えていかないといけないのではないか。
9.変えなければいけないこと
変えなければいけないことは、三つあると思う。一つは、偏差値重視の教育時代で(要するに勉強が出来る人が素晴らしくて、勉強が出来ない人が落ちこぼれ)、当社のタレントは全員が落ちこぼれで、島田紳助は暴走族、ハイヒールのモモコはヤンキーと呼ばれ不良、ダウンタウンは高校の頃はほかの車のガソリンを盗んでいた。そのような落ちこぼれを集めてきて、立派にトレーニングして世の中に提供するという、ある種の厚生施設のような一面があり、そういう人間を排除しない、勉強ができるのも才能の一つではなるが、決してすべてではないと思う。人を笑わすもの才能だし、木登りがうまいのも才能である。もっと人間の才能を多面的に評価していくということをしていかないと、いつまでたってもこの国からはMサイズの人間しか生まれてこない。
先日、ある教育評論家が、昔は、「士農工商」と言ったが、今は「普農工商」(高校入試で偏差値が高い順番に、普通科、農業科、商業科、工業科に分配していく)ということらしいが、普通の人間を沢山つくってきているだけであり、この辺を変えなければならないのではないか。
教育のことを、英語でディケイションというが、ラテン語の(ETUC)エリコからきていて、引き出しという意味とのことで、君の引き出しの中にはこんなに素晴らしい才能や素質がいっぱい入っているよということを気づかせてあげて、生きていく勇気とか自信を与えて上げることが本来の意味の教育ではないか。
二つ目は、税制の改正であり、我々給与所得者の源泉徴収制度を止めて、全てを確定申告制度に替える必要があるのではないか。その理由は、自分達が税を払うという行為をとおして、主体的に国政にかかわっていくという意識がいつまで経っても生まれない。もう一つは、世界一とも言われる所得税の累進税率を下げて、全てが応分に負担するというフラット・タックスに移行した方がよいのではないかと思う。日本の税制は懲罰的な面があり、お金儲けるのは悪いというマインドがどこかにある。所得が、上から20%のグループと、下から20%のグループとの格差が日本は2.7倍であるが、米国は13.1倍開いている。弱者を切り捨てていくということではなく、頑張った人、新しい成果を生んだ人は正当に評価されて、沢山の収入を得て幸せになっていくということにしていかないと、頑張った人間も頑張らない人間も差がなかったら誰も頑張らなくなるのではないか。
インセンティブがあるところに人が集まるということは正しいのではないか。当社に全国から若者が集まってくるのは、ひょっとしたら6億円稼げるかもしれないという夢があるからで、年収のトップが300万円位であれば、誰も寄ってこない。サッチャー元首相が、金持ちを貧乏人にしても貧乏人が金持ちになれるわけではないと言ったが、今の日本は貧富の差が少ないかもしれないが、それは強い人間を出来るだけつぶしてきた結果にしかすぎないのではないか。強い人間をなくしていくと国そのものが弱っていくということが分かっていないような気がする。
三つ目は、規制を緩和し、GDP(国内総生産)の41.8%の分野で規正があり、米国の6.6%に比べ多いので変えていく必要があるのではないか。当社に若者が集まるのは、どこの大学を出ているとか、親がどれだけ偉いとか、どんなに大きな家に住んでいる、貯金が幾らあるというようなことは一切関係無く、本人に才能さえあれば、何億を稼げるスターになれるという夢があるからである。
落語の世界が衰退したのは、制度で守ってしまったからである。落語家は、面白いか、面白くないかの二種類しかないと思うが、この世界の評価軸はそういうことではなく、10年やっているから二つ目にしなければいけないとか、20年やっているから真打にしなければいけないとかは業界の理屈でしかない。お客にとっては何ら関係無いとも言え、制度で守ってしまっているからジャンルそのものが衰退してしまうのはないか。
自由こそ製造資源であり、これから我々は製造資源をフルに活用していかなければならない時代にさしかかっているのではないかと思う。
ドウーディファレント型の時代に対応するシステムにこの国を変えていくために、どこかで、今までの一元的な価値観、システムではなくて、多様性というものを認めたり、異質のもの(自分とは違う価値観)に対して、優しく寛容に対処していくというスタンスが大事になってくる。古いパラダイムから見て、怪しげなものにこそむしろ可能性があるとういのが今の時代ではないか。
新しい発見は、必ずそれまでの常識と対立するということが常にあり、むしろそういう突出した人材、異質、異端、よそものを排除しょうとする体質の方が危険で、そのようなものを排除していくと、どうしても発想がドメスティクになってしまって、視野が狭く、一人よがりに陥っているというのが常である。企業は、このような突出した人材、異質なもの、違う価値観のものを排除しょうとする体質、ジェラシーに対するマネージメントが非常に大事になってくる気がする。
10.大阪の時代(ローカルの時代)
個人的な仮説として、これからはいよいよ大阪が頑張れる時代になってきた。近頃は各界で大阪・関西勢が活躍している。当社で言えば、ダウンタウンが所得番付、一昨年の1位と2位、昨年の2位と3位である。音楽の世界では、シャランキューはじめ、関西勢が活躍している。野球でも大リーグで投げている5人のピッチャー(野茂、伊良部、吉井等)も関西出身である。唯一駄目なのは、阪神タイガース位のものである。
大阪、関西に対する許容度も上がってきた現象がある。東京はメディアが文化をつくり、大阪は人が文化をつくると言われる。人というものに焦点が当たっていくというのがこれからの時代で、大阪・関西が力を持ってきた背景には、どこかで、今まで日本を独占的に導いてきた東京システムという「もの的」な画一化、諸国一致型の頑張りと言うものに対する人間の側からの異議申立てという要素があるのではないかという気がする。大阪には笑いがあり、笑うとナチュラルキラー細胞が活性化してガンの進行が止まると言われるくらい、体によい。明治以降の日本人には、まじめ、一生懸命ということを大事にして、笑うということに対して不得意になってしまったのではないかと思われる。
陽気で明るいという大阪の文化が今の元気のない日本を変えていかないと、楽しい国になっていない。
大阪の人間は元気で、歩くスピードは世界一で、秒速1.6mと言われ、山形の人間と比べると、1時間後に1km離れるといわれている。また、大阪の街は、秩序より個性を尊重する。歩き方もバラバラ、電車に乗る時も並ばない(東京は縦に並ぶが大阪は横に並ぶ=並んでいるうちに入らない。)、青信号も待たず、待っているのは10人に1人といわれている。ノーマイカーデーは東京では車に乗らないが、大阪では空いているから車に乗るというマインドである。
大阪の日本一は、引ったくりが21年連続日本一で全国の3割のシェアを占め、自動車の窃盗14年連続、ひき逃げ10年連続、少年犯罪3年連続、自殺者、詐欺事件いずれも日本一、NHKの未払い、損害保険払出高の一番で、これも秩序よりも個性を優先するが故であろうと、悪い方で出ると事件の多い街ということになってしまう。豊田商事の頃、大阪は日本の痰壷と言われ、ほめられたものでなく、虐げられた町で、虐げられているからこそ自分の力で頑張らなければいけない。自立していこうというマインドが旺盛である。
ベンチャースピリットも旺盛で、戦後日本で起った77の業種のうち57は大阪で起っているといわれている。スーパーマーケット、プレハブ住宅、カプセルホテル、即席ラーメン、サウナ、ターミナルデパート、消費者金融、引越サービス、魔法瓶等である。
大阪から生まれたものは大衆によったもので、東京で生まれたのは、警備保証会社とシンクタンクでどちらかというと体制型である。
大阪は異質なものに対して、優しい、寛容であるという例えでは、江戸は3代、京は10代という言葉がある。東京は3代住んではじめて東京の人間として認知され、京都は10代住まないと認めてくれないという保守的な町である。京都の人は、未だに、任天堂のことを未だにカルタ屋さん、ワコールのことをパンツ屋さんという。
それに比べて、大阪はその日の夕方までである。夕方まで一緒にいれば皆友達であり、馴れ馴れしいが、異質のものに対して優しい。
大阪には大阪弁がある。東京の共通語は、上の命令を下に伝えるのに便利な言葉で、大阪は相手より上からものを言わない。猥雑で、いいかげんな町であるが、バイタリティーがある。これからは、ローカルが頑張っていかなければならない。大阪は大阪の価値観、札幌は札幌の価値観、鹿児島は鹿児島の価値観があっていい。東京スタンダード一色にする必要はない。
当社は、大阪の代表として頑張っていこうとは思うが、悲しいのは、情報の発信力で、圧倒的な開きがあり、9(東京)対1(大阪)位の差がある。大阪でいくら発信しても関ヶ原を超えないので、発信力のある東京に基地を構え、大阪のカジュアルなマインドを伝えていけばよいので、その基地として、4年前に銀座7丁目劇場、3年前に渋谷公園通り劇場をつくった。また、来年の3月には流通のマイカルグループと提携して、北海道の小樽に劇場を立ち上げる。東京には劇場が2つある。名古屋には栄三丁目劇場を持っているし、北陸では、石川県と金沢市から商店街の復興ということで、助成金をもらい一昨年の7月から、金沢館橋?劇場を運営している。京都では、JR西日本とオムロンから資金を受けて、シアター天神博?の運営をしている。大阪には劇場が3つあり、神戸では、人材派遣会社のパソナと提携して、一昨年の4月から吉本海岸通劇場を運営し、来年の5月にはゲーム会社のナプコと提携して、福岡交通センターにも劇場を立ち上げる。そういう所を通して、日本中を大阪みたいにしてあげましょうという全国大阪運動あるいは全国吉本運動を推進中で、大阪流のカジュアルなマインドを伝え、楽しい国にするため展開している。
また、マイカルグループと提携して、中国の大連に劇場を立ち上げた。
近頃、セントロンリー?が盛んであるが、ハードを写すことはどうでもよいことで、考え方の中心を少しずらしてみる(リ・センター)こと、スタンダードを一つに決めてしまわないことが、これからのキーワードになってくるんではないかという気がする。
選択肢を増やすこと、豊かさというのはある意味で多様性のことではないかと思う。皆が皆同じ夢を見る必要はない。全員が勉強して、東大を目指して、公務員になって、キャリアを目指すということでなく、皆が違った夢を持ち、それぞれがそれぞれの自由を認めていった方が楽しい国になるのではないか。
もっと楽しい国にしていきたい。オウムを信じるより吉本興業を信じていただいた方が人は幸せになれると思う。人を幸福にする吉本というシステムをこれからも築いてまいりたいので、どこかで当社の名前を見ても顔を背けることなくご愛好賜わりたい。
注:今回の講演内容については、大阪弁が入ったり、途中で多くの駄洒落も入っているため、
雰囲気はなるべく残すようにしたが、随所に編集を加えていること、途中に、適当なところで区切りタイトルを入れていること、この手の番組をほとんど見ていないので、タレントの名前等に誤字があることに留意いただきたい。
〔講演内容等についての企画部指導課コメント〕
この講演は、埼玉県中小企業家同友会が会員の県下の中小企業経営者向けに開催した、経営研修会の記念講演として開催されたもので、大競争時代の今、市場で勝ち残るために、顧客満足競争に如何にして勝つか、経営品質の視点から、現状の経営体質を抜本的に見直し、強靭な経営体質を築くことを目的にしている。要は元気の無くなっている埼玉県の中小企業に渇を入れるために開催されたもの。
数多くの人気タレントを生み出し、全国にお笑いの渦を巻き起こしている元気印の「吉本ブランド」は、演芸分野のみならず、飲食、FM局、女子プロレス、中国にも進出しているが、売上235億円の企業とはいえ、次代を創る若者に特化し、楽しさをコンセプトにしたバラエティあふれるソフトというシステムを販売するユニークな会社で、最近は全国でこの会社の木村常務を講師に呼んで、講演が多く開催されているが、一昔前では、考えられなかったことではないかと思われる。
内容的には目新しいものはないが、業種は違えても、時代の方向について、分かりやすい講演であったといえる。
何をやってよいか分からないという向きもあるかと思われるが、それそ、企業の経営者が考えるべきものである。皆が同一的なことをやっていては、オンリーワンの企業・商品は生まれない。自助努力により、考えて考え抜いて、チャレンジ・失敗を何度も何度も実践し、その中から、成功が生まれ、次のステージに上がり、終わりなき勝ち残り競争を続けていくことが重要ではないかと思われるものである。
品質性能は当たり前の時代にはいりつつあり、ものに如何に付加価値(顧客満足するソフト的な意味。多様性があり、極端にいえば、顧客毎に違う。他にはない売れるものを創る)をつけることは、零細企業では難しい面もあるが、やらなければいけないこと、自分で出きることを自ら考え実践すること、同業・異業種との融合化を図っていくことを含めて、再展開を実践していくことが重要ではないかと思われる次第である。
講演の後、7つの分科会(@社員教育、A経営指針、B21世紀型企業づくり、C経営実践報告、D金融と経済動向、E人材教育・能力開発、Fパソコンを活用した会社PR)に会場を移し、事前に申込んだ希望の会場に行って、それぞれ設定されたテーマを報告者が講演し、その後、複数のグループに別れて、グループ長の進行で、設定されたテーマについて、討論のポイント、グループの結論、報告者への質問事項を取りまとめ、各グループの代表から報告させる方式を取っていた。